当社のオフィスビルづくりの原点となる最初の開発プロジェクト。1970年代後半の当時、横浜駅西口は駅前ロータリーを囲み高島屋やヨドバシカメラなどの大型商業施設で賑わっていたが、徒歩数分の北幸地区は現在の賑やかな姿とはまるで異なる寂しいものであった。運河沿いに倉庫、練炭工場(現 ハマボール)、木材製材工場(現相鉄KSビル、横浜西口KNビル)、岡村製作所本社工場(現駐車場)などが林立する人通りの少ない工場街として位置付けられていた。当時、それら工場が横浜市金沢区の埋立地へ移転し、跡地を売却する動きが始まりつつあり、北幸地区では既に銀洋ビル、リバースチールビルが竣工するなど、オフィス街へ徐々に移り変わる初動の時代であった。
その流れを加速させるべく東横倉庫(当社前身)にて2か所の工場を買収。駅周辺の開発用地ではなく、工場跡地を集中して買収し、二等地を面的に開発しオフィス街として街区の付加価値を向上させ一等地にするという事業構想の下、その足掛かりとなる第一号のオフィスビルとなる。一方、駅から徒歩8分という道程に他のビルはなく、人通りも少ない「離れ小島のビル」という寂しさは免れず、計画当初よりテナント様誘致の苦戦が予想されていた。そこでリコーグループ各社が横浜駅西口や関内に分散していることに着目し、それらを統合する新たなグループ拠点とすべく、各種分析、提案を連日繰り返した末どうにか移転に漕ぎ着けることとなり、これは、当社の提案型営業の原点となった。
また、駐車場、小型製品倉庫、ショールーム、グループ会議室、グループ4社の横浜事業所を収容し、地下に営業車が出入りし易い自走式駐車場を設置、小型商品倉庫の併設など同社のニーズを建築の各所に汲み入れ、建物名称を「リコービル」、ビル外壁には同社のロゴマークを掲出。このようなオーダーメイド方式による賃貸オフィスビルの開発は、当時としては画期的であり、そこで働く方々が愛着や誇りを感じられるような「自社ビルのような賃貸オフィスビル」という今に続くオフィスビルづくりのコンセプトが誕生したプロジェクトとなった。その後、日本総合建物の会社整理にあたり2000年に売却することに至る。