日総第21ビル[ザ・タワー飯倉]港区・東麻布 当社の“スペース+ヒューマン・サービス”事業の最初の取り組みとして1989年にオープン。全23室の居室は平均50m²台の1LDタイプと80m²台のメゾネットタイプとなり、窓外には敷地裏手から広がる芝公園と増上寺、東京タワーを一望出来る都内有数の眺望に恵まれていた。 また、自社オペレーションによるフロント・リネン清掃サービスに加え、家具や生活備品全てを揃え、地方のオーナー企業の東京出張時、外資系企業の短・中期出張者の滞在先として日本国内のサービスアパートメントの草分けとして長年ご利用を頂いた。 一方、外資系企業の日本出張所や経営コンサルタントの方のオフィスとしてのニーズも高く、地下1階には個室鉄板焼「山祥庵」が入居し、政財界の方々が集う店として運営がなされた。 2011年に営業を終了させ、マンションディベロッパーへ売却、その後取壊しとなり新たにマンションが竣工。 ヴェネオ南麻布港区・南麻布 2005年、銀行系不動産会社より取得。港区南麻布4丁目のフランス大使館と並ぶ南傾斜面の高台に立地し、南側隣地とは高低差約5mの擁壁で区画されている。建物の周囲を大きな樹木が囲み、静寂な緑と明るい陽光に恵まれた貴重な環境であった。敷地内には隣接する新坂と私道を繋ぐ東西の車路が敷かれ、地下に大型6台の自走式駐車場とトランクルームが設置されていた。 当時築16年を迎えた5階建ての建物は、一つのフロアに一つの住戸のみ、その間取りは、欧米のライフスタイルに合わせた外国人をターゲットにした300m²・4LDK+メイドルームという大型住戸であった。住戸内のインテリアや設備機器の陳腐化・老朽化が目立ったことからスケルトンの状態まで一旦解体し、全面的なリニューアルを実施。 また、このプロジェクトを契機として、リノベーションプロジェクトにより開発した物件を「ヴェネオ Veneo」と名付け展開することを試みた。その名の由来は、“場”を意味する「venue」と“新しい”「neo」を掛け合わせた造語になる。 マーケットに即し、徹底した改修工事を行った結果、3区画をまとめて中東某国の大使公邸に賃貸することとなり、その賃料総額は、その年の賃貸住宅の契約金額の最高金額となったといわれている。その後、2006年に外資系投資ファンドに売却することになった。 六本木一丁目南地区市街地再開発事業港区・六本木 個人資産家の方より1987年に取得。ホテルオークラ、米国大使館、スウェーデン大使館などが建ち並ぶ「尾根道」に面し、六本木方面へ抜けるカーブに接する角地の好立地。取得当時、アークヒルズからこの一帯は急勾配の細い道路が曲がりくねり、小規模住宅やアパート、マンションが林立する未開発エリアであり、一定規模の建物としては、住友会館と住友不動産の賃貸マンションの2棟のみであった。その後、住友不動産が同エリアの大部分を買収し、超高層オフィスビル「泉ガーデンタワー」とタワーマンションを配した再開発事業により街区の整備を行った。一方、本プロジェクトの道路反対側は、森ビルが主体となり「虎ノ門六本木地区市街地再開発事業」を推進し、2012年「アークヒルズ仙石山森タワー」として竣工。二社の大手ディベロッパーが取り組む再開発エリアの中間に位置し、角地の好立地を取得することが出来たが、当時、一坪当たり4,000万円、総額約90億円という破格に高額な買収であった。 その後、このエリア一帯に地区計画の網が掛けられ、一定規模での開発や道路提供などの公共負担を条件として割増容積を付与する制度が施行された(取得当時、既に同地区計画の構想はあったものの内容及び施行時期は定かではなかった)。当時、都心地区において建物延数千坪規模の再開発を推進することを目標に掲げていたことから、その想いを実現すべく取得したものであった。 取得当時、道路で区画された約1,000坪の土地保有者は、大きく5つのグループに分かれていた。 住友不動産が日本で初めて分譲したマンション・1960年頃竣工・地上9階建・延1,000坪 東海銀行支店長社宅・地上3階建・延300坪 個人木造住宅3軒 個人所有の4階建賃貸マンション・建物延150坪 個人所有の4階建オフィス・建物延100坪 これらの方々を対象に共同再開発を呼びかけたが、当初は名前も知られていない横浜の不動産会社であった日本総合建物に対し、大手ディベロッパーから依頼を受け「地上げ」に来た業者と思われ門前払いを受けることとなった。その後、3~4年アプローチを継続する中で、ようやく耳を傾けて頂き開発構想に興味を示して頂くこととなり、分譲マンションの区分所有権3室、個人所有ビルの一部所有権を譲って頂くなど徐々に進展しつつあった。しかし、バブル崩壊が始まり、当社も大規模開発計画を推進出来る状況ではなくなり、構想は凍結に至った。 2000年、日本総合建物の会社清算に伴い、同土地は株式会社日総地所が買い受け、取得価格は1987年取得時の1割程度であった。処分に当たっては、信託銀行の管理下での入札となり、大手ディベロッパーなどの応礼の結果、日総地所が一番札として取得。長い期間を要し、容積率など行政により大きく影響を受ける再開発用地においては、時代の変化に伴い大きく価格が変動することを改めて実感することとなった。 2003年に所有地の隣地であった東海銀行の社宅が売却されることになり、こちらも大手ディベロッパーとの競争入札の結果、取得することとなった。同時に、分譲マンションの管理組合より、同建物の老朽化により共同再開発を推進すべく協力の要請を受け、日総ビルディングが事務局を引き受けることを条件に応諾した。後に個人地権者の方々も参加され、四方道路で囲まれた約1,000坪の再開発対象地全員の参加による協議会が発足した。 その後、港区の支援を受ける一方、日本設計に設計業務を依頼し、再開発コーディネーターとしてティー・オー・エム計画事務所を加え、マスタープランを作成。権利変更計画の立案を進め、2005年に東京都より再開発計画の事業認可を受け、正式に第一種法定市街地再開発組合として「六本木一丁目南地区再開発組合」が発足した。副理事長に大西紀男、事務局として日総ビルディングが選任された。当社は、世界に誇れる最高品質のタワーマンションを目指し、賃貸・分譲双方を行うプロジェクトとして推進すべく、地権者の再開発事業への同意を取り付け、借家人の立退移転、居住者の方々の仮住居確保、移転中の補償費支払、同時に必要資金約100億円の日本政策金融公庫からの借入、東京都港区などへの補助金申請など再開発に係る煩雑な手続き且つ初めて経験する業務ではあったものの恙無く推進していった。 2008年、建物の確認申請を進める中、前年のミニバブルの煽りで建築費の高騰が進み、従来の事業収支での事業推進が厳しくなっていく中、同年9月に起こったリーマンショックの影響で高額賃貸マンション市場は急激に悪化。一方、分譲マンションの“億ション”市場も、100m²超の大型区画ではなく総額が張らない50~100m²クラスの中小区画でないと販売が見込めない状況に落ち込むこととなったため、当初のコンセプトや建築計画プランを大幅に変更せざるをえず、不況下での100億円の事業リスクは過大であると判断し、本事業より撤退する決断を下した。 2009年5月の再開発組合の総会において、三井不動産レジデンシャルに当社の権利床と事業協力者・参加組合員の地位の承継が認められ、撤退が決定。その後、同社の下で建物計画は全面的に刷新される中、2010年3月の着工までは日総ビルディングが事務局業務を継続して推進し、着工と同時に撤退し投下資金を全額回収した。この撤退は会社として断腸の思いではあったが、再生後の経営要綱として「二度と会社を潰さない」と標榜していたことから、感情に引きずられることはなかった。その後、同事業は2012年6月に「パークタワー六本木ヒルトップ」として竣工。振り返ると1987年に日本総合建物として225坪の土地を取得以来25年の歳月が経ち、当初の構想は大幅に変更されたものの、街区整備に貢献し、無事に竣工出来たことと共に地権者の方々に喜ばれたことは感慨深い。
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